「不妊治療で仕事をやめた」を回避する
両立のカギは「お互いさま」の風土づくり
人材不足の深刻化にともない近年聞かれるようになった「健康経営」。従業員を人的資本として重視し、心身の健康を増進することで、優秀な人材の定着を図り、企業の生産性アップを目指す取り組みのことです。
そんな健康経営を考えるうえで、経営側としても無視できないのが、昨今の不妊治療を由来とした退職率の高さです。
2022年4月に、不妊治療において保険診療が受けられる範囲が拡充されましたが、コロナ禍も経て、不妊治療を行う当事者、雇用する企業側はどう変化したのでしょうか? また今後健康経営を推進するためには、どのような制度が必要なのでしょうか?
不妊治療の当事者をさまざまな角度から支援する、特定非営利活動法人Fine ファウンダー/理事の松本亜樹子(まつもと・あきこ)さんにお話をうかがいました。
保険適用で市民権を得た「不妊治療」
編集部:Fineさんは、不妊治療の当事者である4人の主婦によって設立されたとうかがいました。まずは、どのような活動をされているのでしょうか?
松本亜樹子氏(以下、敬称略。松本):非常に多岐にわたる活動をしておりますが、主な活動ですと、当事者の心のサポートを行う不妊ピアカウンセラーによる相談、ピアカウンセラーの養成、行政への要望書の作成や署名活動、企業への講演活動などを行っております。また、不妊治療を専門とするクリニックによって結成された組織「JISART(日本生殖補助医療標準化機関)」の認定審査にも参加しています。
編集部:2022年4月に「人工授精」や「体外受精・顕微授精」にも保険が適用されるようになりましたが、それに対する当事者の方たちの反応はどのようなものなのでしょうか?
松本:おおむね歓迎の声が多いですね。高額で手が出なかった治療に挑戦できるようになったことで、若い世代でも不妊治療を始める人が出てきました。
一方で、保険適用に代わって助成金制度が廃止されたことで、自由診療による治療法や、治療の制限回数を上回ってしまった場合など、逆に高額になってしまうケースもみられます。
保険が適用されたことの一番のメリットは「不妊治療」は国が認めたもの、堂々と行って良いものとして「市民権を得た」と思える、精神的な部分が大きいと思いますね。
マイノリティーではない「不妊」
企業が知るべき現実
編集部:Fineさんが過去に行ったアンケートでは、2014年の調査(※1)で勤務状況に何らかの変更をした人のうち60%以上の方が、2017年の調査(※2)でも50%以上の方が「仕事と治療との両立が困難」という理由から退職を選択されていました。保険適用など市民権を得たことで、企業の不妊治療に対する意識は変わってきているのでしょうか?
松本:感覚値としては、退職される方は多少は減ってきているとは思います。現在集計中の「仕事と不妊治療の両立に関するアンケート2023」でもおおむねその傾向が表れています。ただ、意識が変わってきたり、治療に対しての制度が整備されてきたりした結果かというと、そのあたりはまだまだでしょうね。
現在不妊治療や検査を受けたことがあるカップルは4.4組に1組です。これは左利きの方より多い割合です。決してマイノリティーではないんですね。
編集部:しかし、厚生労働省が2017年に行った調査(※3)では、自社に治療中の従業員がいるかどうかの把握すらできていない企業が6割を超えていました。
松本:私どもや厚生労働省のアンケートを受けて意識をしだした、あるいは意識を強めたという企業も多いと思います。
不妊原因の48%には男性も関わっているといわれていて(※4)、不妊治療は女性だけの問題ではありません。年代的に、30代後半〜40代前半がボリュームゾーンとなる不妊治療者は、企業にとっても貴重な人材のはず。その人材の喪失に、人事は危機感を持っていらっしゃいます。
しかし、人事が危機感を抱いていても、上層部、特に60代〜70代の幹部はいまだ理解が薄い。近年、大企業だけでなく中小企業からの講演・研修依頼で多いのは、理解のない上層部や社内の啓発も目的としたものなんです。
(※1)参考 NPO 法人 Fine(2014年)『仕事と治療の両立についてのアンケート』
(※2)参考 NPO 法人 Fine(2017年)『仕事と不妊治療の両立に関するアンケート Part 2』
(※3)参考 平成29年度厚生労働省 『不妊治療と仕事の両立に係る諸問題についての総合的調査研究事業』
(※4)参考 NPO法人 Fine「不妊について」
先ゆく「健康経営」
実践企業の不妊治療への向き合い方
編集部:貴重な人材の退職は企業にとって経営課題ですよね。浸透しつつある「健康経営」にもつながっていくと思います。どういった制度があれば雇用側・被雇用側ともに課題を解決できるのでしょう? 両立をサポートする制度を企業が整備していても、使われていないという現状もあるようですね?
松本:仕事と不妊治療の両立で大きなネックとなっているのは通院頻度です。しかも急な通院も多いのです。しかし、丸一日休む必要はなく、数時間で良いとの実情もあります。「細切れ時間」でも不妊治療は十分可能なので、時間的な柔軟性を持った制度が必要かと思います。
しかし、制度があっても使いづらい雰囲気であれば意味がありません。周囲が「不妊治療」という言葉に過剰反応せず、当たり前のこととして休暇、休職ができる風土づくりが企業に求められます。
現状としては、当事者の中で不妊治療中であることを公にしたくないとする方々も少数ではなく、また制度の社内周知も行き届いていないことの方が多いと感じています。
編集部:理解があり、働きやすい風土・制度を持った企業の例などはあるのでしょうか?
松本:仕事と不妊治療の両立で、どちらも中途半端になりストレスが強まってしまい、そのことがさらに不妊を引き起こす場合もあることから、不妊治療に専念できる休職制度を設ける企業も出てきました。
たとえば、航空会社の日本航空株式会社は1年、モバイル(携帯)事業などを行う株式会社ティーガイアは細切れで合計1年の休職が可能です。ともに女性が活躍している企業で、退職面談の際に、不妊治療を理由にする女性社員の多さに危機感を覚えての制度策定だったそうです。企業は人材の確保、当事者は復職の保障という安心感を得て治療に専念できるようになりました。
コロナ禍を経て変わる意識と環境
編集部:コロナ禍で、30代では治療を中断する人が増えたり、逆に40代の人は焦りを感じたりといったことがみられたようですが、そこを経た変化というものはあるのでしょうか?
松本:緊急事態宣言が出たころは、クリニック自体が治療者の来院をためらったり、職場近くのクリニックに通院していた人は、治療のためだけに外出しなければならなかったりといった物理的な影響がありましたね。
精神的な部分でも、おっしゃる通り不安で先延ばしにされる方も、年齢的に待ったなしで焦ってらした方もいて、少なからずさまざまな方面に影響が出ていたと思います。
編集部:2022年の保険適用では年齢の上限(治療開始時の妻の年齢が43歳)が設けられましたし、コロナが落ち着いた後も別の焦りがあるのでしょうね。
松本:はい、年齢制限が不妊治療終了の線引きになるというポジティブな意見もある一方で、年齢制限の引き上げや撤廃など、改正を求める声は強いですね。
緊急事態から脱した後は、引き続きのリモートワークなどで多少時間的融通がきくようになったり、クリニックにもWiFiが使えて電源もあるようなワークスペースを設けるところが出てきたりと、コロナ禍を経たからこそのポジティブな変化もみられるようになっています。
不妊治療もライフイベントのひとつとして
さまざまなステージの人を支え合う制度を
編集部:コロナ禍を機に、働き方だけでなく人生について考え直す人も多かったように思いますが、健康経営を行ううえで今後企業に求められることはどういったものでしょうか?
松本:長い人生の中で、不妊治療、育児、介護など、休暇や休職を必要とするライフステージはいくつもあるものです。不妊治療に関わらず、あらゆるステージの人が、心身ともに健康でそのステージですべきことに専念できるよう、「お互いさま」の気持ちで送り出せる風土や制度が、今後の企業には必要不可欠なのではないでしょうか。属人的になりすぎず、お互いがお互いをフォローできる組織は強くなると思います。
もちろん、属人的でない=代わりはいくらでもいる、という意味ではありません。働き続けたい意志のある人材を失うことがどれほどの痛手になるかということ、休職期間を考えても人材の確保が重要であるという現実に、しっかり向き合うことが企業には求められると思いますね。
編集部:松本さん、貴重なお話をありがとうございました!
企画・編集/小山 佐知子
私自身も高齢での出産でしたし、周囲でも不妊治療中や治療を経て出産した人、夫婦二人の生活を選んだ人が多くいます。体験談を聞くこともあるのですが、治療の内容やそこにかかる精神的・金銭的負担、仕事との両立の難しさなどまだまだ知らないことが多く、治療のために働き方を変えた人のうち半数が退職を選んでいたことには驚きました。一方で企業側の関心の薄さには驚きというより焦燥感のようなものを抱きました。少子高齢化に対し、企業の風土はもちろん、社会の意識の変容も求められます。まずは知ることから始めたいと思います。
プロフィール
松本亜樹子さん
Coach A.M.代表/特定非営利活動法人Fine ファウンダー・理事/一般社団法人 日本支援対話学会理事
結婚後体験した不妊の経験から友人と共著で本を出版。それをきっかけとして特定非営利活動法人Fine(~現在・過去・未来の不妊体験者を支援する会~)を立ち上げ、理事長に就任。18年間理事長を務め、現在はファウンダー/理事として活動中。
ライター