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2023.03.12 2023/03/10

時を経ても消えない思いを胸に、転職・移住
「地域」の課題に関わりながら生きる

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時を経ても消えない思いを胸に、転職・移住<br>「地域」の課題に関わりながら生きる

現在(2023年3月)日本全国20拠点で、地方共創事業を展開する株式会社FoudingBase。その拠点のひとつ、北海道富良野市でワーケーション推進担当として働く磯尾悠真(いそお・ゆうま)さんは、昨年6月に同社に入社後、配偶者とともに富良野へやってきました。

スポーツに打ち込んだ少年時代、地域・コミュニティを主語とした活動に触れた学生時代、長期的目標を模索した新社会人時代を経て、彼の地にたどり着くまでには、稀有な経験も、多くの人が陥るような葛藤もあったようです。その中で感じ、考え、抱いた思いとともに、この先に見えているものについても語っていただきました。

幼きころの原風景が見せてくれた未来への指針

高校時代の野球部で、校歌斉唱のときの1枚

小学生のころは、野球、サッカー、テニス、陸上とスポーツをいくつか掛け持ちしていたのですが、中学に上がるころには「野球」に的を絞っていました。みんなと盛り上がるのが好きなので、自分にとってはチームスポーツが魅力的でした。

中学ではスカウトされてクラブチームで、高校はスポーツ推薦入学で野球に専念しました。高校でけがをしたことで、大学は推薦ではなく一般受験をしましたが、やはりスポーツに関わっていたい思いで、アスリートのセカンドキャリアや生涯スポーツについて学べる学科を選びました。

しかし、ここにターニングポイントが。浪人を経て入学した大学の学科必須科目に「コミュニティ・マネジメント」があり、そこで自分は「人に興味があり、人の集合体であるコミュニティ、ひいてはコミュニティの集合体である“街”に興味がある」ことに気づいたのです。

“街”というテーマで最初に思い浮かんだのが、小学校に上がるまで住んでいた京都府舞鶴市のことでした。当時はまだ活気のあった商店街の八百屋さんや、玩具屋さん、駄菓子屋さんへ『はじめてのおつかい』さながらに買い物へ行っては、店主から声をかけてもらうことがうれしく、楽しい思い出として今も残っています。

そして、そんな場をつくっていく地域での活動に心引かれ、ゼミでも香川県丸亀市の魅力を探る活動をしていました。実際に現地へ赴き、老若男女問わず道ゆく人にインタビューをして、丸亀の過去から現在について聞いて回りました。最初はそれこそ「丸亀=うどん」のイメージで聞き取りに臨んでいましたが、そこで生活をしていないと見えてこない魅力を多く聞くことができたのです。実地の重要性を感じる体験でした。

「実地」で体感してこそ得られた学び

大学時代に初めて訪れたフィリピン。スモーキーマウンテンで初めて「貧困」が何かを体感

大学時代、特に実地の大切さを感じたのが、フィリピンでの活動でした。

浪人時代に立てた目標のひとつが「海外へ行きたい」でした。本当はアメリカへメジャーリーグを観に行きたかったのですが、費用が予想以上で(笑)、ゼミの先輩に誘われ参加したスタディーツアーの渡航先がフィリピンだったのです。しかし、人生初海外かつ目標の実現という事実に意識がいってしまって、内容もしっかり確認していませんでしたし、事前説明会もちゃんと聞いていなかったんです。

そのため現地についてからの2週間は衝撃しかありませんでした。初日から物乞いに出会うし、ホテルの窓から見えるのは都会の街並みなのに、1本裏の道はスラム街だし。ツアーの目的が「貧困について学ぶ」だったので、当然といえば当然なのですが、ゴミ山で暮らす人々にも触れ、字面ではない「貧困」を体感して帰国しました。

帰国後、その衝撃のままにこのツアーを主催していたNGOに参加し、大学時代は何度もフィリピンへ行きました。丸亀同様、現地に行くことでしか知り得ないこと、見えてくる事象の背景などから、学校での“学び”に肉付けがされていった気がします。

フィリピンでのボランティア活動に加え、より多様な価値観に触れるため留学生寮のチューターなどもしました。全国的に見れば特異なことではないかもしれませんが、交友範囲の中では、自分はかなり変わった学生でしたし、その自負もありました。それゆえ「何者にでもなれる」といった思いが生まれていたのです。

なりたい姿が見つからず、持て余していた20代

留学生寮チューターをしながら、もやもやした思いのまま就活をしていた大学生時代

しかし、その思いのまま臨んだ就職活動で、自分には長期的目標や、やりたいこと、なりたいものがないという事実を突きつけられることになりました。「君のやってきたことはすごいね。で、これからは何をしたいの?」「なんのために仕事をするの?」と深掘りされるたび、自分には何もないことに気づかされたのです。なりたい姿がないのに、何者かになれるわけがありません。

そのことに気づいたものの、すぐになりたいものが見つかるわけでもないので、まずは幅広く仕事を経験できる総合職を目指すことにして、そこに興味のあるスポーツ、音楽業界を掛け合わせ、志望先を絞りました。「営業を経験していると後々つらいことも乗り越えられる」との先輩からの助言もあり、総合職の中でも営業を希望。実際に音楽に関わる、株式会社USENの営業として社会人生活を大阪でスタートさせました。

言葉を超えたコミュニケーションや、空間演出に果たす音楽の力を身をもって感じていたので、そこでの営業が嫌だったわけではないのですが「なんのために働いているのか?」がまだ見つけられず思い悩んでいました。

そしてふと「大学やフィリピンで学んだ、地域コミュニティに関わる仕事ってあるのかな?」と思い、ネット検索して見つけたのが、実は今の会社でした。

偶然にも社員につながりのある人がいたこともあり、共同代表と会って話をし、ありがたいことに「一緒に働かないか」とのお話ももらったのですが、そのときは社員が自分らしく未来を見据えて働く姿を目の当たりにし、自信のなさなどからためらってしまって……。「自分はまだみなさんと働くレベルではなく、まずは目の前の仕事に向き合います」と、一度は見送ることになりました。

「地域が主語」の仕事がしたい!
妻のひと言に背中を押され、移住を伴う転職に挑戦

初めて富良野へ来た日に思わず撮影

初めて富良野へ来た日に思わず撮影

それでもやはり「地域やコミュニティに関わりたい」という思いは消えず、地域×スポーツという軸で、大阪のプロバスケットボールチームの運営会社に入りました。バスケットボールはプロスポーツの中でも地域にガッツリ入り込んでいて、自治体の方々ともたくさん仕事をさせてもらいました。

そんな中で、チームが主語の活動よりも、地域が主語の活動がしたいと思うようになり、その過程で「そういえば」と現在の職場であるFoundingBaseのことを思い出したんです。

とはいえ、すでに結婚していたので、移住前提の会社への転職にためらう気持ちと、挑戦したい気持ちとで悩んでいました。そんなとき、妻とテレビを見ていたら新潟県三条市のドキュメント番組が放送され、妻がポツリと「こんな地域での暮らしにもチャレンジしてみたいな」と言ったんです。私が地域の仕事に興味を持っていることは話していたので、「じゃあ」ということで当時出ていた求人に応募し、6年越しでの入社が決まりました。

基本的には「この地で仕事を」とオファーされるのですが、家庭の事情などを考慮いただき、「京都府宮津」「静岡県南伊豆」「北海道富良野」の3つの選択肢をいただきました。私は富良野に興味を持ちつつも、舞鶴に住んでいたこともあるし、実家も兵庫県なので「宮津」かなと思っていたのですが、ここでも妻が「どうせなら富良野とかの方がおもしろいんちゃう?」と背中を押してくれました。

地域の魅力を内外にどう発信するか
関係人口創出に向けた富良野での挑戦

一緒に富良野へ来ている会社のメンバーと、富良野の魅力を発信

富良野について移住以前に知っていたことは「観光地」であることくらいでした。知人たちも口をそろえて「いいところやんな、何があるか知らんけど」と。何があるかわ分からないのに良いと言われるのってすごいですよね(笑)。それが富良野の魅力だとは思うものの……

今は“富良野”という素材をいかに活かして、新たな価値を生み出すかに取り組んでいます。SNSやWebサイトでの情報発信も行っているのですが、ワーケーションで外から人を呼び込む取り組みをしています。また最近の発見なのですが、ワーケーションは内の人にとっても、外の人との交流の場になり、地元の魅力のアウトプットをすることで、地域の魅力の再確認や新たな気づきがあるようです。

このように、内外の人を大きな輪に巻き込んで、富良野の関係人口を増やしていきたいですね。自分としては移住者である初心を忘れず、内と外のどちらにも寄りすぎないスタンスをとっていければと思っています。

ここでの仕事は常にトップダウンだった営業の仕事と違い、自分たちで現地を見て、課題設定をしゴールを決めていく。ほとんどが自分たち発信のボトムアップです。大学時代から感じていた実地の重要性を再認識しつつ、今までにない経験や自分自身の新たな発見もあり、魅力を感じています。

移住前は、ここで得たナレッジを他の地域に展開することが日本全体のためにもなっていいのかなと考えていたのですが、あまりの居心地の良さに、今はこの地域に関わり続けたいと思っています。

しかし、ここで完結させるのでなく、今もお付き合いのあるNGOなどを通じて、いずれはフィリピンの活性化にも役立てられたらなと。バスケチームで“ビジネス”として地域に関わった際に、ボランティア活動といった“貢献”では真に地域の問題を解決することは困難であり、外からの人がいなくなっても回っていくしくみや、残るなり引き継いだ人が続けていける意義が大事なのだと実感したので、私の今までの経験や、富良野で蓄積していくナレッジを国内外ともに活かしていきたいですね。

企画・編集/小山 佐知子

ライター

大倉奈津子

ライター/プランナー/エディター

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